能は能か演劇かがテーマ。古典では、「伝統(その形のもの)か、アートか」ってのは、どうしても問題になるよね。
ワガハイは、能も狂言も『芝居』だと思ってるんですが、そうじゃない人も居るんだろうな。
『伝統』というものは、『伝統』で大事です。言わば、何百年にも渡って、練られて抽出されたものだけが残ってきているわけですから。
ただ、その過程で不純物が混じってしまっている場合もある。型なんかは、どちらか区別が付きにくいですよね。誰かのヘンテコな癖が、人間関係によって残ってしまったものなのか、良いものであるから残っているのか。
やはりここは原則に返ると見えてくるものがあるんでしょうが、その『原則』自体もよくわからなくなっている場合があります。
門外漢がこんなことを言っているのも可笑しいですが。
『猩々乱/鐵輪』は、3日間で宝生/喜多/観世がそれぞれ同じ演目をやったらしい。全部観たかった。
3日間観てみたかったなあ。
能はシロートだけど、3日も見れば、流石にちょっとは前進しそうだ。
〔↓他の方の観劇日記〕(勝手にリンクすません)
→■宝生流を見られた方のブログ
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→■楽園は心の中にあるさんの観世流についてのエントリ
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照明がカッコイイ。能は普通、照明を使わないが、あれくらいのささやかな使い方なら良いと思う。
そして、ヨシマサ先生は、くるりとまわるだけでも見栄えがするね。
能の凄さはここだと思う。
まだ数回しか観たことが無いけれど、動きに見入ってしまう強さがある。カッコイイ。
ただ、形をなぞるだけだったら、アレは生まれない。
「形をなぞる」ではなく、「能をやる」のは、相当な修行が要りそうだ。
そういえば、能や狂言は、先にストーリィを見ておいた方が良いと、何処かで読んだんですが、ワガハイは、あまり先に見ません。
見た方がより楽しめるのは判っているんだけれど、今は判るよりも、「ワケガワカランけど、スゲェもの」として感じたいんだと思う。
まあ、もう何本か見たら、先に調べたりもするようになると思うのですが、今は、先入観無しで見たい。「能はこういうものだから」ではなく、普通のレパとして、芝居として、どんなものなのかを観たい。
……もっと沢山観たいなあ。(-_-)
タダ券が落ちてないものか。
(註:ストーリィを知っていると先入観が出来てしまうのは、ワガハイだけなので、普通のシトは知ってから観た方が良いと思います。
なんというか、ストーリィを知ってしまうと、オレサマの中の何かが起動して、色々と脳内でチェックをしたり、補完してしまうんだよな)
兎に角、満足しました。
ポストトークを聞いて考えたこと
2007年09月05日
燐光群「『放埒の人』はなぜ『花嫁の指輪』に改題されたか あるいはなぜ私は引っ越しのさい沢野ひとしの本を見失ったか」を見ル
■燐光群
一人の役と思われる人を違う役者が次々とやっていくのが自然。これが出来るのは、やはり燐光群の役者の力ですな。
このレベルに役者を持っていくには、どういう練習をすれば良いのか大変気になる。
ただ、流石に、年の多い人が若い役をやると我に返る。ちょっと微妙かも。
原作の一人の人のエピソードの積み重ねらしい。レパはあまり好きではないが、坂手洋二の構成力は凄い。こういったものを見ると、やはり坂手洋二は演出家だな、と思う。
それから、ポストトークが面白かった。
原作者の質問が、丁度聞きたいような内容で、坂手洋二がホストというよりは、原作者がホストのようだった。
演劇は言葉で、映画は動きというのは、どういう意図で言っているのか不明だが、確かに、映画は「映像」というものが強いとは思う。一面に広がる砂漠をポンと映せば、何も要らないみたいなね。ただ、芝居も言葉無しで役者がそこにいるだけで何も要らない場合もあるとは思う。
また、エネルギーの循環という概念が面白い。確かにそれは感じる。スカしてウザイ芝居には、エネルギーが無い。エネルギーを役者間にも、劇場にも循環させて、体内でも循環させ、何かを発現させると良い芝居になるように思う。
面白いというか、違った角度から燐光群を見た一本でした。
ポストトークmemo
一人の役と思われる人を違う役者が次々とやっていくのが自然。これが出来るのは、やはり燐光群の役者の力ですな。
このレベルに役者を持っていくには、どういう練習をすれば良いのか大変気になる。
ただ、流石に、年の多い人が若い役をやると我に返る。ちょっと微妙かも。
原作の一人の人のエピソードの積み重ねらしい。レパはあまり好きではないが、坂手洋二の構成力は凄い。こういったものを見ると、やはり坂手洋二は演出家だな、と思う。
それから、ポストトークが面白かった。
原作者の質問が、丁度聞きたいような内容で、坂手洋二がホストというよりは、原作者がホストのようだった。
演劇は言葉で、映画は動きというのは、どういう意図で言っているのか不明だが、確かに、映画は「映像」というものが強いとは思う。一面に広がる砂漠をポンと映せば、何も要らないみたいなね。ただ、芝居も言葉無しで役者がそこにいるだけで何も要らない場合もあるとは思う。
また、エネルギーの循環という概念が面白い。確かにそれは感じる。スカしてウザイ芝居には、エネルギーが無い。エネルギーを役者間にも、劇場にも循環させて、体内でも循環させ、何かを発現させると良い芝居になるように思う。
面白いというか、違った角度から燐光群を見た一本でした。
ポストトークmemo


