今日はどうでもいい戯れ言がダラダラと書いてあるので、途中で詰まらなかったら読み飛ばす事を
オススメします。
ワガハイ、自分のことが非常に気になります。
どんな人であろうとも、自分のことが気になるんでしょうが、その類に漏れず、ワガハイも自分のことが気になります。
自分はどういう人間なのか、相対的にどういった位置にいるのか、絶対的にどういった位置にいるのかが気になります。
これはどうしてなんだろうなあと考えてみると、今日も某所で自分の事を「個性的」であるような事が書かれていたんですな。
ワガハイ、この「個性的」なる言葉を聞く度に精神をザワザワと撫でられます。「個性的」ってのは、平将門の「神格化」と一緒何じゃないのか?という疑惑が頭の片隅にあるからです。
専門ではないので、こういうものだと言うわけにはいかないんですが、日本は神様の多い国です。鍋にも薬缶にも神様はいるし、外国の神様の受け入れも盛んです。
その中に、「神格化」された実在の人物がいるんですが、菅原道真にしても、平将門にしても、祟りを起こした人物が、宥められるために祀られています。
害を及ぼす人物を、祀る事によって、取り込むのです。
一旦「神様」という箱に入れてしまえば、祟りを起こすことも仕方がないし、何故だか学問を出来るように恩恵も授けてくれる。
自分たちの社会の中の枠組みの中に「神様」という安置する場所を作って、「得体の知れないもの=無闇に祟りを起こす怨霊」から、「枠組みの中のもの=祟りを起こす神様」へと吸収してしまうのです。
何が言いたいかと言えば、「個性的」という言葉も同じではないかと思います。
「得体のしれない、何を考えているかわからない人物=所属がはっきりしない」から、「変わっている人=個性的な人物という箱の中に所属している」へと変質させて、自分の中に取り込むのです。
部屋の中のどこにゴミが落ちているか分からずに、イライラする状態から、ゴミを一カ所へと集めて、ゴミの在処をはっきりさせるのにも似てますな。
こういった便利な言葉は、数多くあります。
例えば「女」「男」という言葉もそうでしょう。「女性はこういったものだから」「男性はこういったものだから」と言うのは簡単ですが、人間を2つの種類にわけてしまうのは随分と乱暴な話です。
大体、同じ事でも、男性が行えば「男だから」女性が行えば「女だから」と言っているのを聞きます。支離滅裂です。
自分という人間が
独立していない場合に、人はこの言葉を使うなあと思っていたのですが(例1)、他人に対しても、行うんですな(例2)。
(例1:何か失敗をした時に「男ってこういうものだよ」と言う。全世界の男がそういった能力であるデータがあるはずもなく、自分という人間の能力不足であるために、起こった失敗を、男という集団の責任に転嫁する。これは他の男に対して失礼だ。自分の事は自分で責任を取れ)
(例2:また、何かを成功した人を見た時に「理系だからね」と言って、相手が特別なものであるかのように箱へと入れ、全世界の中でその箱は異質であるとの位置づけをし、自分がそれを出来ないことを正当化する。理系という言葉自体が曖昧である上に、理系が全員それを出来るわけでもない。根拠の無い断定だ)
であるから、どうにもこうにも、「個性的」なる言葉に信用がおけないのです。それは、自分達の相容れぬものを、取り込むための言葉ではないのか。または、自分たちの場所を確保するための言葉ではないのか。
そういった事を考えるわけです。
そうして、この「個性的」という言葉を言われてしまう自分の、独立性(他人から離れているという意味ではなく、他人に寄りかかることなく、立つという意味)を保つためには、どうしても相対的、絶対的な位置を気にせざるえません。
まあ、どうだっていいことなんだけどね。( ̄д ̄)
わりかし昔から、自己というものがはっきりしたタイプなので、こういったことも悩みというよりは論理をこね回す遊びに近いんですけれども、時折、思い出しては、精神がザワザワとします。
まあ、どうだっていいことなんだけどね。( ̄д ̄)
posted by 國王 at 03:19| ウィーン |
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オレサマの秘密
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